関西学院大学の中道教授にキリスト教の終活について取材させていただきました。
「終活にどのような違いがあるか」「親に終活を上手に勧める方法」など、宗教に関係なく多くの方にとって役に立つお話をたくさん伺えました。
(インタビュアー:ベンナビ相続(旧:相続弁護士ナビ)編集部 酒井)
酒井:まずは中道教授の研究テーマについてお伺いしてもよろしいでしょうか?
中道:私は実践神学・宣教学を専門にしています。アメリカから来たキリスト教が日本の文化と出会うことでどういう風に変化していったか、そしてその変化をキリスト教としてはどう評価するか、そんな中でも特に変化の大きいキリスト教のお葬式の変化について、が私の大きな研究のテーマとなっています。
キリスト教葬儀では「復活」がテーマになりますが、日本のキリスト者はこれを「天国で会いましょう」という言葉に切り替えています。これがどのように切り替わっていくのか、ということが数あるテーマの中でも一番大きなテーマです。
昔はこのような変化をシンクレティズム:宗教的混淆として、純粋なキリスト教が別の何かと混ざって違うものになると否定的に評価されていたのですが、それをインカルチュレーションと言って、むしろ積極的に評価すべきものじゃないかというのが私の主張です。キリスト教も、いわゆる日本のお葬式とか葬儀文化から何を学ぶことができるのかっていうことですね。
酒井:なるほど。最近では「お坊さんのいないお葬式」のような、コストを抑えたお葬式などの流れも生まれていますが、そういった傾向についてどのように思われていますか?
中道:キリスト教もその傾向はないことはないんです。ただクリスチャンの人の多くは教会と密接に関係を持っていますから、牧師がいないってことはあり得ません。でもやはり宗教がその役割を失ってきているのではないかなと思います。
だからお葬式にしても、宗教者に来てもらっても特に良いことはないし、来てもらわなくても何か失うわけではない、というのがいわゆる一般の人たちの実感です。やはりそこには、本当はよくないと思うんですけれども、経済というのが非常に大きな意味を持っています。
「お金が掛かるか掛からないか」というのが大きな判断基準になって、逆に大切なものが失われているのではないのかなっていうことも一つ反省材料としてあります。もう一つは、やはり葬儀をする人たちも経済優先でものを判断しているんじゃないのか、という点はその人たちへの批判・考えとしてありますね。
酒井:そうですね。確かに経済的に判断してそのような形式を選択する方も多いと思います。普通の生活をしていると、経済より大事なものに気付くっていう機会もなかなか無いかと思うのですが、気付くための機会はどういったところにあると思いますか?
中道:それはやはりいろいろな機会があると思うんですけれども、例えば安く葬儀をあげた後に自分の中にある悲しみとどう向き合っていいのかわからない。それを通して、経済では埋められないものがそこにあるというのに気づく大きなきっかけになるんじゃないかなと思うんですよね。
酒井:葬儀が終わってから気付くことが多いのですね。
中道:そうなんです。私は死の中でも「二人称の死」が最も重要なテーマであると考えています。
一人称の死とは自分が死ぬということ。二人称の死とは、私の愛する人が亡くなるということ。三人称の死とは、新聞に載っているような「今日何人死にました」という人ごとのようなこと。
「二人称の死」はフランスのジャンケレヴィッチという哲学者が強調していることで、哲学としても宗教としてもこれは一番大きな問題じゃないのかと。その亡くなった後「あの人は亡くなってしまった」ということをどう受け止め、どう経験していけばいいのかということが大きなテーマだと思いますよね。
酒井:確かに、終活セミナーを開いている方にお話を伺う中で、自分ではなく親や親戚の終活で悩んでいる方が多いという話もありました。
中道:そうです、自分は死んだらもう終わりなんですよね。でも二人称の死は、親の死とか夫の死とか妻の死とか子供の死は、ずっと続いていきますよね。
酒井:宗教を信仰している方は死について比較的ポジティブに捉えられてると聞いたことがありますが、その背景についてお伺いしてもよろしいでしょうか?
中道:いろんな理解があると思うんですけれども、死について語る言葉を持っているかどうかではないかなと思うんですよ。
「死んで神様のところに行った」「天国で安らかに眠ってる」「また天国で会えるよね」など、死や死後の世界、死後の事柄について語る言葉を持っている、表現を持っている。それが教会の中で、宗教的共同体の中で共通して持ってるということはとても重要だと思うんですね。
例えば仏教でも「お盆に先祖が帰ってくる」と。そして3日ほどしたら、また送り出す。そういう「帰ってくるんだよ」というような、死について語る言葉を持っているんですね。
でも、一般の社会の中では「お盆なんて何か知らない」と。別に実家に帰るわけじゃなくて、お盆っていうのは海外旅行に行くとか、会社が休みになる日っていう認識ですよね。そうすると、世の中に死について語る言葉がだんだん少なくなってくる。言葉がなくなると死が意味を持たず、不気味な顔なしになってきたんじゃないかなと思います。
酒井:死を語ることがタブー視されるような世間の空気も、やはり死について語られてないからこそなのかもしれませんね。
酒井:両親の終活に関しては特に「親に終活を始めてもらいたいけど言い出し辛い」という話をよく聞くのですが、終活についてどのように伝えるのが良いでしょうか?
中道:やはりきっかけというのは、病気するとか死を連想させるものが起こったときに、親と子が共通の言語を持っているということが重要じゃないかなと思うんです。
酒井:もし親子間で全く共通言語がない場合、何か自分できっかけを作る方法はありますか?
中道:例えば「エンディングノートっていうものがあるんだ」というようにエンディングノートを媒体にして話をするとか、「どんな生活してきたのか一度聞かせて」なんてことをテーマにして話を始めるのもいいと思います。
親が何高校に行ってたとか、何大学で何学部でどんなクラブやってたとか、どこに就職して一体何課だったのかとか。実は自分の下には亡くなった弟がいたとか、話は広がっていきますよね。
酒井:エンディングノートの一部を切り取って、そこから広げていくというのも一つの手段ということですね。
中道:そうですね。以前僕も親が古希のお祝いをした時に、パワーポイントで昔の写真なんかを使って「こういう時代でした」と親の半生を紹介しました。そのときに、「何中学に行ったの」「なんでこの高校に行ったの」「なんでこの大学に行ったの」などを聞いたのですが、これが未来の死について語るということへと繋がってくると思うんです。だから過去を聞かずして死のことだけ語るっていうのはちょっと難しいんじゃないかなと思いますね。
酒井:エンディングノートには、無宗教の方に向けたものやクリスチャンの方に向けたものなど種類がありますが、どのような違いがあるのでしょうか?
中道:今回の取材があるということでしっかり見てみたんですけども、例えば「不動産の法定相続人はどうですか」「貯金・クレジットカードは」「不動産について」「証券会社」「写真の整理」「これまでの人生について」といった項目があって、そんなに変わらないんじゃないかなと思います。
ただ、「あなたの人生について書いてみましょう」といったときに、そこに宗教だったり、キリスト教だとしたら神様っていう言葉が入ってくる。「ここで神様に出会って」とか「神様の導きによってこうした」というような表現が加わってくると思います。
そしてそれが最終的に、やはり自分の人生や命は神様によって与えられて、今日まで来れたっていうことに対する感謝に貫かれていくんじゃないかなと思います。だから項目の違いというよりは、編集方針の違いっていうのがあるかな、という気がしましたね。
これはナラティブと言われる言葉ですけども。例えば酒井さんに「自己紹介してください」と言ったとすると、山ほど出来事があるじゃないですか?でもそこのいくつかをピックアップして、自分史っていうのを作って語られますよね?
酒井:はい、そうですね。
中道:山ほどある出来事から特定の出来事をピックアップし、「それを繋げていくストーリーは何ですか?」というのが問題だと思うんですよ。そこで選ばなかった出来事っていうのはいっぱいあるわけですよね。でもその中から「これとこれを選んで私はこういう人間です」って言ったときの、それを貫いているストーリー。ナラティブっていうものがなんなのかっていう。
キリスト教の場合は、それは「神様が私をこう導いてここまで祝福してくださった」という、この線というか、ネックレスでいう糸みたいなものですよね。それがあるということが大きいかなと思います。
酒井:確かにそういったストーリーがあると、すごく書きやすそうですね。
中道:例えば自分史として自分を語るときに「自分の誇りは事業成功してきたことだ」と。こんなに金持ちになったとか、こういう財産を築いてるんだ。っていうと、そういう物語をずっと繋げて「自分はこんなに頑張ってきたんだ」「そしてこんな財産を築くまでになったんだ」というような自分史になりますよね。
それではなくて「一体自分の人生を貫いているものは一体何なのか」と考えるときに、神様の導きや神様の愛、宗教、仏様、自分の信念なんかが線になると思うんですよね。
酒井:なるほど。宗教を信仰している方は何か出来事がある度に「神様と関わりがあってこういうふうになった」とか、考えたりするのでしょうか?
中道:そうですね。ただそれは良い面も悪い面もありますよね。例えば、僕は中学校受験で落ちたんですよ。でもその落ちた原因は、やはり自分がちゃんと勉強しなかったということなんですよ。けれども母親は「神様がこの中学を向かないと思ったんだわ」「あなたはもっと違う道に行った方がいいと神様が示してくれたんだと思うよ」って言ってくれたわけです。
これは解釈ですよね。「ちゃんと勉強しなかったから落ちた」というのも解釈だし、「ここの中学校に本当は行かない方があなたのためにも良かったんじゃないか」「神様はこういうふうに導いてくれたんだよ」というのも解釈ですよね。そういう解釈の言葉を持っているかどうか。もちろんクリスチャンでも「それはあなたが勉強しなかったから駄目なんだ」っていう人もいると思うんですね(笑)。
酒井:多くの方がポジティブに物事を捉える意識や姿勢が身についている、ということですね。
中道:そうですね。そういうことが教会の中で会話として交わされるわけですよ。だから、いわゆる外国語を勉強するみたいなものですよね。教わった人の表現とか言い回しとかが、自分の言い回しになってきますよね。それは親から学ぶみたいなものですけれども。そういうふうに教会の中で「あなたが病気になったのも大変だけど、そこに神様は一緒にいてくれるよ」という言葉を学ぶことで、その言語を身に付けていくっていう。
酒井:終活でよくあがる話題として「いつ始めるべきか」という話がありますが、キリスト教の場合はどうでしょうか?
中道:特に決まりなどは無いですね。終活と言っても終わりが決まってるわけじゃないので「死ぬ3年前に始めましょう」とかって言えたらいいんですけど、今は死ぬ1週間前かもしれないし、明日死ぬかもしれませんしね。
酒井:では、自身の人生の記録を残したりするような活動はありますか?
中道:全部の教会ではないですけれども、教会がアンケートを取ったりすることがあるんですよ。例えば「お葬式にどの賛美歌を歌ってほしいですか」とか「どの聖句が好きですか」というのをアンケートとったり。それから聞いておかないといけないのは、クリスチャンでもその世代がずっと続いてるわけじゃないので「あなたはキリスト教でお葬式をあげたいですか」「それともそれは家族に任せますか」というのを聞くことも結構あります。
というのも、例えばお父さんお母さんだけがクリスチャンで、子供たちは全然違うと。そしたらお父さんが亡くなってお母さんも亡くなったと。それで自分たちはキリスト教のことや教会のことを全く知らないから「それじゃ自分たちでやろうか」となったときに、「この方は教会でお葬式されることを望んでらっしゃいましたよ」ということを教会から言ってもらえます。エンディングノートのようにここにこう書いてあるんですよってお示しして家族に理解していただく、という場面もありますね。そのために、まだ元気なときに「どうされたいかちょっと聞かせてください」っていうことをお話しすることもありますね。
酒井:なるほど。教会に来られている多くの方は、死後に関するお話をしても特に嫌がることはないんですね。
中道:そうですね。結構、笑いながら話すこともありますね。例えば昔からの冗談で「天国で私の夫にまた会えます」とかって話したら、「そんな好きな夫に会えるかもしれんけど、嫌いなあの人にも会うかもしれんよ」とか(笑)。「それは嫌やわ」みたいな。
これはね、僕は日本人としては大切にしたらいいと思うんですけれども、最近は家族を失った人の話を聞くという機会が少ないんですよね。やはり昔だと法事とか、キリスト教では記念会と言うんですけれども。そういうところで、「亡くなった人はこうでした」「今自分は寂しくて本当に泣いてばかりいます」「もうすっきりしました」「今でも思い出します」とか、いろんな話がいっぱいあるんですよね。それを聞くチャンスがないんですよ。
教会はそういった信徒の交わりで話を聞いたり、逆に話したりできるということが大切だと思うんです。そのときにやはり感動することもあるし、泣いてしまうこともあるし、大笑いしてそのことを受けとめることもあるし。そういう場所が本当に必要だなと思います。
酒井:確かにそういう場所は少ないですよね。特に都会だと、知り合いとしか話さないような状態もありますし。
中道:みんな核家族で過ごしていますからお葬式もスピード化して、誰かのお父さん亡くなったって言ったら、バーッとお母さんのとこに集まってくる。ただ2,3日したらもう仕事に行かないといけないから、それで「お母さん元気でね」「また何かあったら電話してね」って言ってパーッと帰っていく。
でもそこからお母さんは、誰と亡くなったお父さんのことについて話したらいいのかわからないですよね。1人でそれを抱えないといけないし。毎日「寂しい寂しい」ってこどもに電話したら、こどもは「ちょっと忙しいから毎日かけてこられても困る」って言ってしまうかもしれません。それを聞いてくれる人がいる、場所がある、そういう時間があるというのは、僕はとっても大切かなと。
酒井:ちなみに、これまで教会とかに足を運んでなかったけど、お父さんやお母さんを亡くして1人になって話を聞いてもらうために教会に訪れる、っていう方もいらっしゃるのでしょうか?
中道:いらっしゃいますね。それをそのまま目的にするわけじゃないんですけれども、「お父さんお母さんが信じていたキリスト教ってどんなものかな」とか。それからそれをきっかけに教会に来るようになる方はいますね。
教会では亡くなった人を記念する「礼拝」というものがあるんですね。それは日曜日の朝にあるんですけれども、その日はいつもの3倍くらいの人が来ます。だから、クリスチャンじゃないから普段は教会に来ないけれども、お父さんお母さんが亡くなったということで教会に来てみた、ということがあります。
酒井:そうなんですね。てっきりクリスチャンじゃない方は比較的行きづらいのかなと思っていました。
中道:いや、でも行きづらいとは思いますよ(笑)。教会の中では何をやっているか全然わからないじゃないですか。でも教会でお葬式をして、牧師とも知り合いになって「こういうのがありますから来ませんか」って言ったら、まあちょっと行ってみようかっていうのは、それは一つの入り口としてあるように思いますよね。
酒井:それでは最後に、これから終活を検討している方に向けてメッセージをお願いします。
中道:終活っていうのは、いわゆる人生の整理をする部分がありますよね。財産はどれだけありますかとか、生命保険はどうなっていますかとか、そういうのを伝える目的はありますけれども。やはり一番の目的は自分の人生の意味を考えるっていうことだと思うんですよ。
そしてそこには「自分の死後はどうなるのかな」という、私達の中ではスピリチュアル・ペイン、霊的な痛みと言いますけども。「もう自分はなくなってしまうんだろうか」「自分の人生には意味がないんじゃないか」と思う、この痛みを大切にして、それに自分がどう答えていくのか。それを答える言葉っていうのを、どの宗教でもいいし、哲学でもあってもいいので、是非探してほしいなと思います。